2019年2月2日土曜日

吉原弁財天本宮(弁天池跡)@東京都台東区千束

吉原神社から150mほど離れた弁財天本宮(吉原神社奥宮)


新吉原花園池(弁天池)跡
「江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参詣者が訪れている。 池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。 平成10年3月 台東区教育委員会」


花吉原名残碑
「吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和3年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。 明暦3年(1657)の大火を契機に、幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され同明暦3年(1657)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年(1958)「売春防止法」の成立によって廃止された。 その名残を記す当碑は、昭和35年(1960)地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。 昭和41年(1966)の住居標示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。 平成17年(2005)3月 台東区教育委員会」



2016年9月初訪

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