童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。
さいたま市の氷川神社を勧請したとも、京都市の北野神社を勧請したともいわれているが定かではない。この三芳野という社名は在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であったことによる。現存する社殿は、寛永元年(1624年)川越藩主酒井忠勝が3代将軍徳川家光の命を受けて造営した]もので、鈴木近江守長次によって再興された。翌寛永2年には、天海大僧正を導師として遷宮式が行われた。これ以後、喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社となった。寛永3年(1626年)には徳川家光の侍講・林羅山がこの地で嫡男・叔勝の病気平癒を祈願した。明暦2年(1656年)には、4代将軍徳川家綱の命を受けた川越城主松平信綱により大改造が行われ、施工には木原義久があたった。この大改造の時に江戸城二の丸の東照宮本殿を移築し当本殿とし、寛永に建てられた拝殿との間に幣殿を新しく設け、権現造りの形態とした。(Wikipedia)
2016年10月初訪
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