2019年2月6日水曜日

箕輪城@群馬県高崎市箕郷町東明屋

箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。(Wikipedia)

戦国時代中期の永正9年(1512)長野業尚によって築かれたというが、大永6年(1526)に業尚の子の信業によって築かれたという説もある。
永禄元年(1558)関東管領上杉憲政が越後へ亡命すると、北条氏康、武田信玄、上杉政虎が侵攻を繰り返す場となった。信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団を束ね、長野氏全盛時代を築いた。
業正が没すると信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。 永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、
永禄9年(1566)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。
箕輪城は武田氏の上野経営の拠点として、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種が城代に任じられる。
元亀元年(1570)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。
天正10年(1582)2月の天目山の戦いで武田氏は滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。内藤昌月は近隣の領主と共にこれに従っている。
しかし、同年6月2日、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、内藤昌月はこれに降り、北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。
天正18年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となった。(Wikipediaより)



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