当社は、聖武天皇の神亀元年(724)9月11日、勅願によって鎮座され、以来1295年の歴史を持っています。文治5年(1189)、源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安4年(1281)、蒙古襲来の折、必勝を祈念しての、鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)のご奉納などを経て、中世初めには大社としての発展を見ました。殊に、千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く、関八州より、多くの参詣者を集めたと、伝えられています。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌、『江戸名所図会』(※)などにも大きく納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せました。明治5年(1872)、郷社に格付けされ、以後、時の流れと共に名称などに変化はあったものの、ご神徳・社運の輝きはいよいよ高く、今日に及んでおります。
石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉家の庇護下に入り、石浜城を拠点とした(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れている。だが、下総回復は達成できず、扇谷上杉家の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣政権の小田原征伐によって没落、石浜城も廃城となった。
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に登場する。
城の所在地については、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺で、石浜城もその側にあったとされているが、荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説と、台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説に分かれており、江戸時代以後の古利根川→隅田川の流路の変化や都市化の進展によって付近の地形も大きく変わっており、遺構なども見つかっていない。「新修荒川区史」は、石浜神社の神官が千葉氏の一族である鏑木氏によって世襲されていることから、前者の説を主張している。「東京市史稿」は、「石浜城の跡今の金龍山にて、聖天宮なり」として本龍院説をとり、「大日本地名辞書」「望海毎伝」も後者の説を載せている。中世を通じて同一の場所に石浜城があったのか、また城そのものの規模についても不明のままである。(Wikipedia)
2016年11月初訪
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