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2019年2月2日土曜日

小塚原刑場跡(延命寺)@東京都荒川区南千住

慶安4年(1651)、千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)に小塚原刑場は創設された。
寛文7年(1667)に本所回向院の住職である弟誉義観が、死者の埋葬と供養を行うため、小塚原刑場隣接地に常行堂を創建した。これが後の南千住回向院であったが、常磐線鉄道敷設の際に南北に分断され、その後分断された南側部分が独立して延命寺となったという。
江戸の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、西に大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。
小塚原刑場では、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人の刑を執行したという。

敷地内には3.6m余の延命地蔵尊(首切り地蔵)がある。

泪橋。
「あしたのジョー」にも登場する。

2016年11月初訪

2018年4月19日木曜日

鈴ヶ森刑場跡@東京都品川区南大井

江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。
  元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。(Wikipedia)

1651年(慶安4年)開設。1871年(明治4年)閉鎖。
220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。(Wikipedia)

最初の処刑者は「由比正雪の乱」の首謀者のひとり丸橋忠弥とされ、歌舞伎に演じられる平井権八や八百屋お七もここで処刑された。

磔用の木柱を立てた礎石などが残されているが、写真に撮り忘れたので機会があったら載せたい。


に架かる浜川橋。別名「泪橋」。
鈴が森に送られた罪人は、この泪橋で家族や縁者と別れ涙した。


2017・秋