江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。
元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。(Wikipedia)
220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。(Wikipedia)
最初の処刑者は「由比正雪の乱」の首謀者のひとり丸橋忠弥とされ、歌舞伎に演じられる平井権八や八百屋お七もここで処刑された。
磔用の木柱を立てた礎石などが残されているが、写真に撮り忘れたので機会があったら載せたい。
に架かる浜川橋。別名「泪橋」。
鈴が森に送られた罪人は、この泪橋で家族や縁者と別れ涙した。
2017・秋
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