源頼朝が伊豆に蟄居していた際に稲荷の神体を彫刻して建立。 後に北條早雲が小田原へ遷座し、小田原落城後に小西半右衛門が隅田へ奉遷。その後、德川家綱が当地へ遷座したという。
今より約八百年前、源頼朝卿が伊豆に蟄居のときのこと、兵糧でもある米穀に乏しくならぬよう稲荷の神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社のおこりと云われています。後に伊勢新九郎(後の北條早雲)が小田原城に移った際に、その神体を城内へ遷座したところ多くの奇瑞が顕れたといいます。このことから開運稲荷と尊称されました。
小田原城落城に至り、この稲荷に信心あつかった小西半右衛門という者の夢に稲荷の神があらわれ「我を供奉して隅田の辺に下るべし」と御告げがあり、天正十八年、小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設けることにしました。仮殿を建てんとしたところ土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音であり、実に稲荷の本地仏なりと喜び本社へ移し奉りました。
のちに奇瑞あらたなることから、徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座しました。霊験あらたかにして諸穀の豊穣を司り、願望を成就せしめ一切の災を除く故に、参拝の輩は群集をなし神籬にそですり通うことから「神寿里稲荷」が守号となり、「袖摺稲荷」と変化しました。(案内板より)
2016年11月初訪
2019年2月3日日曜日
浄閑寺(投げ込み寺)@東京都荒川区南千住
花又花酔の川柳 「生れては苦界 死しては浄閑寺」。
浄土宗の寺院。山号は栄法山。吉原遊廓の近くにあり、遊女の投げ込み寺としても知られる。地名の三ノ輪から「三ノ輪の浄閑寺」と称されることも多い。
1655年に創建され、吉原遊廓の誕生(1657年)よりも2年早い。寺のウェブサイトによると、同寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に『~売女』という戒名で文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっている。この場合素裸にされた上に荒菰(あらごも)に包まれ、寺に投げ込まれた。「人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」という考えによったとものとされている。(Wikipedia)
新吉原総霊塔
ひまわり地蔵
永井荷風文学碑
永井荷風を歩く一環として来訪。
2016年11月初訪
2019年2月2日土曜日
吉原遊廓@東京都台東区千束
江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。
売春防止法が可決成立し、翌昭和32年(1957年)4月1日に施行されると、吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身する。(Wikipedia)
奥が見えないよう、S字カーブになっている
「おはぐろどぶ」の名残の坂という。
敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。
売春防止法が可決成立し、翌昭和32年(1957年)4月1日に施行されると、吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身する。(Wikipedia)
吉原大門の「見返り柳」。
「おはぐろどぶ」の石垣跡という
「おはぐろどぶ」の名残の坂という。
赤線時代のカフェー建築。
樋口一葉「たけくらべ」の旅で来訪したが、もっと深く、歴史文化的にも、街歩き的にも魅力的な街です。
2016年9月再訪
登録:
投稿 (Atom)















